領頭字 | |
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慢 | |
解形 | |
《說文》:“慢,惰也。人岙人心,曼聲。一曰慢,不畏也。” | |
注音 | 釋義 |
(一)man4《廣韻》謨晏切,去諫明。元部。 | (1)怠惰;懈怠。《說文‧心部》:“慢,惰也。”《廣韻‧諫韻》:“慢,怠也。”《荀子‧不苟》“君子寬而不僈”唐楊倞注:“僈與慢同,怠惰也。”三國蜀諸葛亮《出師表》:“若無興德之言,則責攸之、禕、允等之慢,以彰其咎。”《水滸全傳》第十回:“街上尋了三五日,不見消耗,林韦岙中也自心下慢了。” (2)輕視;對人無禮貌。《玉篇‧心部》:“慢,輕侮也。”《廣韻‧諫韻》:“慢,易也。”《左傳‧襄公三十一年》:“我遠而慢之。”杜預注:“慢,易也。”唐韓愈《答馮宿書》:“雖不肖人至,未嘗敢以貌慢之。”《儒林外史》第十二回:“管家,實是多慢了你。” (3)驕傲;傲慢。《說文‧心部》:“慢,不畏也。”《廣韻‧諫韻》:“慢,倨也。”《易‧繫辭上》:“上慢下暴。”孔穎達疏:“小人居上位必驕慢,而在下必暴虐。”《史記‧高祖本紀》:“陛下慢而侮人,項羽仁而愛人。”宋王安石《與僧道升二首》之二:“汝今何恭昔何慢﹖” (4)慢走。《詩‧鄭風‧大叔于田》:“叔馬慢忌,叔發罕忌。”毛傳:“慢,遲。”陸德明釋文作“嫚”,云:“本又作慢。”陳奐傳疏:“古侮嫚作嫚,惰慢作慢,其義皆不訓遲。慢、嫚皆走㶊曼之假借字。《說文》:‘走㶊曼,行遲也。’”引申為緩慢。《廣雅‧釋詁二》:“慢,緩也。”唐白居易《琵琶行》:“輕攏慢撚抹復挑。”茅盾《子夜》一:“車子也走得慢了。” (5)簡略;隨便。《孔子家語‧儒行》:“其大讓如慢,小讓如偽。”王肅注:“慢,簡田熷各也。” (6)放肆;無節制。《呂氏春秋‧開春》:“聞𠻘為國者,賞不過而刑不慢。賞過則懼及淫人,刑慢則懼及君子。”《禮記‧樂記》:“五者皆亂,迭相陵,謂之慢,如此則國之滅亡無日矣。鄭衛之音,亂世之音也,比於慢矣。”孔穎達疏:“五者皆亂,驕慢滅亡。” (7)不牢固。《淮南子‧時則》:“工事苦慢,作為淫巧,必行其罪。”高誘注:“慢,不牢也。” (8)漂亮;神采奕奕。南朝梁劉孝綽《同武陵王看妓詩》:“迴羞出慢臉,送態表嚬蛾。”唐白居易《憶舊遊》:“修蛾慢臉燈下醉,急管繁絃頭上催。”《敦煌變文集‧無常經講經文》:“或是僧,伽藍住,古貌慢慢如龍虎。”蔣禮鴻通釋:“說和尚修持到家,精神完聚,神彩充溢。”五代李煜《菩薩蠻》:“臉慢笑盈盈,相看無限情。”詹安泰注:“慢,曼的借字……形容貌美的意思。” (9)稀疏。宋陸游《老學庵筆記》卷二:“前輩傳書,多用鄂州蒲圻縣紙,云厚薄緊慢皆得中。”明汪珂玉《珊瑚網畫法‧山水訣》:“定眾峰之揖拱,列群岫之威儀,多則亂,少則慢,不多不少,要分遠近。” (10)唐、宋詞的一種體制,以調長聲緩得名。如:木蘭花慢;西江月慢;卜算子慢。清徐釚《詞苑叢談‧體製》:“唐人長短句皆小令耳,後演為中調,為長調,一名而有小令,復有中調,有長調,或系之以犯、以近、以慢別之。” (11)通“墁”。塗抹。《莊子‧徐無鬼》:“郢人堊慢其鼻端,若蠅翼,使匠石斲之。”陸德明釋文:“慢,本亦作漫。李云:‘猶塗也。’” |
(二)man2 | 《集韻》謨官切,平桓明。同“悗”。惑。《集韻‧桓韻》:“悗,惑也。或人岙人曼。” |
京都文化博物館に「川端康成と東山魁夷」展を見に行った。今年初めての展覧会である。先週、神戸市立博物館の浮世絵名品展に行ったのだが、1時間待ちと言われて、我慢ならず見ずに帰ったので、今年初となった。川端康成と東山魁夷は、とても親交があったみたいで、それにちなんでということらしい。5年前にここでの「没後30年 川端康成 文豪が愛した美の世界」展を見たことがあるし、東山魁夷の回顧展も見たことがあるので、どうしようかと思ったが、まあ行こうと思った。京都文化博物館は、外観は赤レンガで古風なのだが、中は7階建ての近代的な造りである。金がかかっていそうで、大赤字じゃないのかなあ。
まん【慢】
[
] [音]マン(呉)1 心がゆるんで締まりがない。「
」
2 速度や進行がだらだらと遅い。「
/ 」
3 梵語 māna
他をみくびっておごる。「
/ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 」
第一種慢是叫作「慢」。「慢」的意思是說,你確實勝過別人,所以心裏面有個比較高下的想法,因此心裡就想「我的境界遠遠超過他,我比他年輕,比他健康,比他有錢,比他有地位,比他有名望」等等;因為是確實勝過別人,所以心中就生起了慢心,甚至於有時會開口說「我勝過他」,這就叫作慢。
第二種是「過慢」。過慢中的「過」字是指過失的意思,也就是說,有過失的慢就叫作過慢。譬如他明明沒有勝過別人,卻顛倒事實而開口說「我勝過他」,而事實上他只是與對方一樣而已,卻說「我勝過他」,這就是有過失的慢,稱為過慢。
第三種是「慢過慢」。慢過慢是說,他的慢心上面是有過失,再另外增加另一個慢心。意思是說,明明是輸人家,卻反過來說自己是贏過人家;也就是說,不如別人的時候,本來應該說是不如別人,假使說自己與別人相等,也已經算是過失了,他卻反而說自己是贏過人家,這當中有三種超過本分之處,所以叫作慢過慢。
じ‐まん【自慢】 の解説
第四種慢稱為「我慢」,又稱為「根本慢」。為什麼叫作根本慢呢?意思是說這種慢心是一切慢的根本;這種慢心是一切人生來就有的,也就是因為有「我」而生起慢心。
譬如小朋友常常這樣子,其實他還很小,但是當他看到別的小朋友的時候,他就會比較高下,覺得自己比別人高超,因為有「我」而覺得自己了不起。也就是說,因為我的存在就覺得很喜歡,這就是我慢。
凡是基於自我的存在而生起的慢,都屬於我慢所含攝。我慢也正是慧解脫和俱解脫修習者最難突破的地方,由於這種慢是因為自我的存在而生起喜樂的,所以極為微細,非常不容易察覺,當然也就不容易斷除了。「高慢」。什麼是高慢呢?我們如果從慢、過慢、慢過慢來說高慢,大家就比較容易了解。
譬如有人向別人表示,自己已得上人法,超勝於一切人,因此而自高,這就稱為高慢;意思是說覺得自己勝過一切人而產生慢心,就叫作高慢。
ぶ‐まん【侮慢】 の解説
慢心して他を見下すこと。
「之を賤 (いや) しめ、之を―し」〈報徳記・一〉
高慢在諸地菩薩中是不會存在的,只存在於三賢位中,這是為什麼呢?那是因為諸地菩薩總是拿佛和菩薩來比,就會覺得自己的修行差得遠呢!要到何時才能成佛呢?因此,總是心心念念想著應該如何才能往上提升,才能利樂更多的有情,所以諸地菩薩不會有高慢產生。但是在三賢位中有時會生起,那就會隨著每個人修證的高下而有所不同。然而高慢通常都是在凡夫位中出現的多,如果在親證實相,轉依如來藏以後,高慢的情況就會漸漸地減少了。
第六種是「卑慢」。什麼是卑慢呢?卑慢剛好是高慢的相反。譬如說因為自己不如別人,所以心中就自我安慰說:「他雖然贏過我,但其實也沒有像他講的贏那麼多啦!」這就叫作卑慢。明明和別人相差很多,卻說其實沒有差那麼多啦!
除了這種情形以外,另外還有一種情形是,即使完全承認別人比我強,自己實在是卑劣,但是仍然不肯虛心的向別人來請教,反而生起慢心說:「你高你的,我卑我的,還不是同樣要吃飯睡覺。哼!有什麼了不起!」這樣就是十足的又卑又慢的人了。
卑慢其實是很普遍存在的,但是我們心裏面知道就好,不必當面指出來,以免對方因為卑慢增長而生起瞋心。ぞうじょう‐まん〔ゾウジヤウ‐〕【増上慢】 の解説
[名・形動]
1 仏語。未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること。七慢の一。
2 自分を過信して思い上がること。また、そういう人や、そのさま。「増上慢をたしなめる」
「極端に―なこの叔母に」〈
・牡丹雪〉
第七種慢是「增上慢」。所謂增上慢就是指未得謂得、未證言證。意思是說,還沒有得到的法,自稱自己已經得到,還沒有證得的證量,自稱已經證得了,這就是增上慢。
就大致而言,一般人常在不知不覺中,就會犯了增上慢;乃至阿羅漢也不能避免。譬如法華會上,當 世尊準備開講《法華經》的時候,就有五千聲聞人當眾退席,而在場的阿羅漢們,居然都沒有人出面制止聲聞人的退席;這就表示阿羅漢們對 佛世尊仍然有疑,懷疑自己與 佛的解脫證境是否相同,懷疑 世尊即將宣講的《法華經》是否言過其實;因此說阿羅漢仍然有增上慢。
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が‐まん【我慢】 の解説
1 耐え忍ぶこと。こらえること。辛抱。「彼の仕打ちには我慢がならない」「ここが我慢のしどころだ」「痛みを我慢する」
2 我意を張ること。また、そのさま。強情。
「―な彼は…外 (うわべ) では強いて勝手にしろという風を装った」〈
・ 〉
3 仏語。我に執着し、我をよりどころとする心から、自分を偉いと思っておごり、他を侮ること。高慢。
「汝仏性を見んとおもはば、先づすべからく―を除くべし」〈
・仏性〉- 找尋/追尋自我身心永遠不變的"我"之境界。
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仏教用語 慢, マーナ | |
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サンスクリット語 | māna |
チベット語 | ང་རྒྱལ་ (Wylie: nga rgyal; THL: ngagyal) |
ビルマ語 | မာန (IPA: [màna̰]) |
中国語 | 慢 (T) / 慢 (S) |
日本語 | 慢 (ローマ字: Man) |
韓国語 | 만 (RR: man) |
英語 | pride, arrogance conceit |
モン語 | မာန် ([màn]) |
シャン語 | မႃႇၼႃႉ ([maa2 naa5]) |
タイ語 | มานะ |
慢(まん)とはサンスクリット語のMāna(マーナ)に由来し、仏教が教える煩悩のひとつである[1]。他人と比較して思い上がることを言う。慢は渇愛(タンハー)より生まれる[1]。 俗に我慢といい、我が身をのみ頼みて人を侮るような心を指す。
慢は以下として取り上げられている。
- 大乗仏教における五毒のひとつ
- 大乗仏教アビダルマにおける、6つの煩悩心所のひとつ(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)
- 上座部仏教アビダルマにおける、14の不善心所のひとつ
- 上座部仏教における十結のひとつ
- 倶舎論における八不定地法(尋・伺・眠・侮・貪・瞋・癡・悪見)ひとつ
なお、他者と比較せずに自惚れている状態は憍(きょう)という。サンスクリットのMānaを憍慢と翻訳する場合もあるが、憍と慢はやや異なった煩悩とされ、慢は他と比較して起す驕(おご)りで根本的な煩悩とされるが、憍は比較することとは無関係に起る。家柄や財産、地位や博識、能力や容姿などに対する驕りで付随して起す煩悩であるとされる。これを随煩悩ということもある。
種別[編集]
慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の七慢の総称としても用いる。また八慢、九慢とすることもある。いずれにしても、他と比べて自らを過剰に評価して自我に捉われ固執し、福徳や悟りを具えていないのにそれらを修得していると思い込む煩悩をいう。
「私」という幻覚が生まれること自体が、慢の始まりなのである[1]。「私」という幻覚が生まれると以下のように、自分を標準として他人を判断するようになる[1]。
パーリ経典[編集]
パーリ経典の経蔵では十結のひとつに挙げられている[2]。慢を基準に物事を判断することを壊した人は、菩提の境地に至るのである[1]。
《俱舍論》對勘材料( 315 / 591)
第315頁 / 共591頁 |
標識序號01-13-14:
梵語 | vijñānaskandho mana āyatanaṃ ṣaḍ avijñānadhātavo manodhātuś ceti // |
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真諦譯 | 是識陰即是意入及六識界並意界。 |
玄奘譯 | 應知識蘊即名意處,亦名七界謂:“六識界及與意界。 |
英譯 | 3. The vijñānaskandha is the mana āyatana; it is seven dhātus,namely the six classes of (cognition vijñānakāya=vijñānadhātu) and the manodhātu or manas,the organ of the mind. I-16 |
現代漢語釋 | 應該知道識蘊即稱意處,也叫七界,指的是“六識界和意界”。 |
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