【生理を知ってみる研修開催】
こんにちは!42期生の大瀧真生子です。
3月17日に株式会社Reboltの内山様、下山田様、スポーツファーマシストの砂原様にお越しいただき、生理を知ってみる研修を開催しました。
女性も当たり前に活躍する時代になり、松下政経塾でも女性の塾生数が増加しています。その一方で、女性の身体と切っても切り離すことができない「生理」という話題は、何かタブー感のようなものがあり真正面から議論することができていませんでした。
しかし、今後の松下政経塾のためにも女性のこと、引いては生理のことと向き合わなければならない、ということで、第一歩として生理を「まず知ってみる」ための研修を主催しました。
まず生理の仕組みについての説明、そして実際に女性の身体に起こること、職場やスポーツの場でのトラブルなどの事例、生理と仕事の生産性に関するデータなど様々なことをご説明していただきました。男性たちだけではなく、女性にとっても分かりやすい説明であり、自分たちの身体のことを深く知る良い機会になったと感じています。
そして私がこの研修で一番印象的だったのは、男性方に生理用品に触れてもらい、そして水で濡らして実際に着用していただいたシーンです。
「ゴワゴワ感」「蒸れる」「不快感」という声が男性陣から上がり、加えて実際に生理用品から水が漏れてスラックスや座っている椅子を濡らしてしまったという方もいました。
また、生理用品を触ったことがない多くの男性方からは「これはどこに貼り付ければいいのか」「使い終わった生理用品はどうするのか」「(本体を取った後の)周りの薄い紙はどうしたらよいのか」と、女性にとっては当たり前すぎて気づかない疑問点をたくさんいただき、私たち女性にとっても目から鱗でした。
生理用品はトイレに流すものだと考えていた方もおり、男女間でこんなに知識の差があるものだと思ってもみませんでした。
講義の一番最初に、内山様から「この講義には正解がありません」というお話がありました。今回の目的は生理を「まず知ってもらう」ことです。生理用品を触ったこともなかった人が生理用品の使い方を知ったこと、捨て方を知ったこと、不快感を知ったことに意味があると思っています。ここからそれぞれが、「生理の人とどう向き合うか」を考えていくことが大切ではないでしょうか。
講義にもありましたが、生理で困っている人にどのような声かけをするかは、パートナーなのか会社の同僚なのかでも変わりますし、同僚であってもどのような信頼関係なのかで変化します。関係性は多種多様で、そして生理の人と出会う場も千差万別です。だからこそ、生理への対応の絶対的な正解を出すことができない、というのが難しい点です。しかし、全員が正しい知識を得ること、生理をまだ知らない人が生理を理解すること、そして生理の人自身が主張すること、そういった積み重ねから、互いに配慮し合う優しい環境、より思いやりのある環境を生み出すことができると思っています。
女性が生理で休むことに関して男性から不公平感を感じるという主張があるのも事実です。しかしこの研修での主張は、決して「生理だから休んでいいでしょ」ということではありません。
より良い社会とは、体調が悪い時にはすぐに休むことができる社会であり、体調が悪い人に対する配慮がある社会です。女性が生理で体調不良であれば休むのと同様に、男性も体調不良であれば休んでリラックスすることができる社会がベストではないでしょうか。
女性が生理だからって休むのはズルい、ではなく、男女問わず体調不良の人は休んでゆっくりしよう、休むことは悪いことやズルではない、という優しい考え方が社会に広がるよう、今後も研修を続けてまいります。
【台北=田中靖人】台湾の民主進歩党の陳水扁元総統(65)は4日夜、自身が創設した研修機関が台北市内で開いた記念パーティーの会場を訪れた。
陳氏は収賄罪などで服役中の2015年1月、病気治療を理由に南部・高雄市での自宅療養が認められ事実上の仮釈放となったが、政治活動は禁止されている。所管する台中刑務所は3日、パーティーへの出席は「同意しがたい」としており、陳氏側が“出席”を強行した形だ。
式典には支持者ら約1700人が参加。陳氏は会場脇の別室で、希望者らの握手に応じるなどした。高雄市の陳菊市長や台南市の頼清徳市長らも訪れた。
民進党政権発足を受け、支持者の間に陳氏の特赦を求める声があり、こうした世論を喚起する狙いがあるとみられる。
夏含夷:非常道考
夏含夷 美國芝加哥大學東亞系
《老子·道經》第一章頭兩句話是中國思想史上最有名的語句,“道可道,非常道;名可名,非常名”早已經變成一個成語,意思是某件事情玄妙到不能利用語言來說明的地步。衆多《老子》讀者都知道這個意思。從《老子》的第一個注解,即《韓非子·解老》篇,到最近發表的白話和英語翻譯幾乎都采用這個意思。然而,本人在讀《老子》的時候,一直覺得這種“常識”未得《老子》之深義。“名可名,非常名”當然和語言有關係,而意思並不玄妙。“道可道,非常道”則與語言根本没有關係,而只是講:一種恒久不變的道路不可能引導行人到達目的地,任何的道路都要蜿蜒變化以便避免大自然的和人爲的障礙。以“道”引申爲“道理”的意思,大義相同,是說没有一個道理或者一種辦法能够永遠解决世界上所有的問題;《商君書·更法》所謂“治世不一道,便國不必法古”就是這個意思。本文擬簡單地做些分析討論以向中國思想史專家請教。
“道”爲講說之義
“道可道,非常道”,第一個“道”是名詞,原意是“道路”,可是在先秦諸子百家文獻上普遍引申爲先天地生,宇宙萬物之原本及其進行的功能。于此,大多數注疏家就采取引申意義,把它解釋爲“道理”或“道法”之道,亦即“辦法”的意思。第二個“道”是動詞,大多數的注疏家釋爲古書上相當罕見的“講說”之意思。如此,“道可道”的意思是“能够利用語言來講說的道理或者道法”。“非常道”的“道”又是一個名詞,和第一個“道”相同,可是根據大多數注疏家的理解,又與之根本不同。這個“道”乃是“常道”,也就是說爲先天地生之物,無法以人爲的邏輯或語言去描寫的宇宙萬物的本原。“道可道”第一個“道”因爲是指一個“能够利用語言來講說的‘道法’”,也就是說一個片段有限制的事物,那麽作爲名詞的兩個“道”就完全不一樣。“名可名,非常名”,按照一般的解釋,有與前相同的意義:第一個“名”是名詞,意思是人爲的名稱;第二個“名”是動詞,意思是“安名”;第三個“名”又是名詞,意思是永久不變之名稱,也就是“道”(馬王堆帛書《道經》出土以後,學者們發現“非常道”原來寫作“非恒道也”,爲了避免漢文帝劉恒之名諱“恒”改爲意義相同[但是並不完全一樣]的“常”,現在大家都知道,然而與本文大義没有多少影響,這裹可以不去管它)。
因爲中國注解的性質常常是分章分句的,對某一句話的意思不易作直接比較,所以爲了反映上述解釋的普遍性,最方便方法可能還是引用外國的某些權威翻譯。下面引用19世紀以來十幾位較爲權威的西方漢學家對《老子》第一章“道可道,非常道;名可名,非常名”的翻譯。①
1.Stanislas Julien (1842):
La vole qui peut tre exprimée par la parole n'est pas la Vole éternelle?; le nom qui peut tre nommé n' est pas le Nom éternel.
2.Lionel Giles (1904):
The Tao which can be expressed in words is not the eternal Tao; the name which can be uttered is not the eternal name.
3.Richard Wilhelm (1910), English by H. G. Ostwald (1985):
The Dao that can be expressed is not the eternal Dao.
The name that can be named is not the eternal name.
4.Léon Wieger (1913), English by Derek Bryce (1999):
The Principle that can be enunciated is not the one that always was. The being that can be named is not the one that was at all times.
5.Arthur Waley (1934):
The Way that can be told of is not an Unvarying Way; The names that can be named are not unvarying names.
6.Derke Bodde (1937):
The Tao that may be called Tao is not the invariable Tao.
The names that can be named are not the invariable names.
7.Robert Henricks (1989):
As for the Way, the Way that can be spoken of is not the constant Way; As for names, the name that can be named is not the constant name.
8.Michael LaFargue (1992):
The Tao that can be told is not the invariant Tao the names that can be named are not the invariant Names.
9.Livia Kohn (1993):
The Tao that can be told Is not the eternal Tao.
The name that can be named
Is not the eternal name.
10.Richard John Lynn (1999):
The Dao that can be described in language is not the constant Dao; the name that can be given is not its constant name.
11.Ralph D. Sawyer and Mei-chun Lee Sawyer (1999):
The Tao that can be spoken of is not the ineffable Tao.
The name that can be spoken is not the ineffable name.
12.Roger T. Ames and David L. Hall(2003):
Way-making that can be put into words is not really way-making,
And naming that can assign fixed reference to things is not really naming.
這些翻譯法並不是西方學者們創造的。根據相當詳盡的檢索,得知幾乎每一個中國人做《老子》英譯時,包括著名學者與文人諸如林語堂、陳榮杰、劉殿爵和任繼愈等,也都取同樣的理解。
13.Lin Yutang(1942):
The Tao that can be told of
Is not the Absolute Tao;
The Names that can be given
Are not Absolute Names.
14.D. C. Lau(1963):
The way that can be spoken of
Is not the constant way;
The name that can be named
Is not the constant name.
15.Wing-Tsit Chan(1963):
The Tao that can be told of is not the eternal Tao;
The name that can be named is not the eternal name.
16.Ren Jiyu等(1993):
The Tao that can be spoken of is not the eternal Tao;
The name that can be named is not the eternal name.
現存最早的《老子》注解,亦即《韓非子·解老》篇中,已有很清楚的理解:
凡理者,方圓、短長、粗靡、堅脆之分也。故理定而後可得道也。故定理有存亡,有死生,有盛衰。夫物之一存一亡,乍死乍生,初盛而後衰者,不可謂常。唯夫與天地之剖判也具生,至天地之消散也不死不衰者謂常。而常者,無攸易,無定理,無定理非在于常所,是以不可道也。聖人觀其玄虛,用其周行,强字之曰道,然而可論,故曰:“道之可道,非常道也。”(《韓非子·解老》)按照這個解釋,第一個“道”指“定理”,亦即“方圓、短長、粗靡、堅脆之分也”,也是“有存亡,有死生,有盛衰”。第三個“道”乃是“無定理”,也就是說没有包括在死衰的限制內。作爲動詞的第二個“道”是聖人“强字之”的意思,也就是在論語之内。
韓非子死于秦王政(後來自稱始皇帝)十四年(公元前233年)。他死后一百年,《淮南子》被奉獻給漢武帝,書中對《老子》有許多解說,引用“道可道,非常道”不只二三次而已:
晚世之時,帝有桀、紂,爲琁室、瑶臺、象廊、玉床。紂爲肉圃、酒池,燎焚天下之財,罷苦萬民之力,刳諫者,剔孕婦,攘天下,虐百姓。于是湯乃以革車三百乘伐桀于南巢,放之夏臺。武王甲卒三千破紂牧野,殺之于宣室。天下寧定,百姓和集,是以稱湯、武之賢。由此觀之,有賢聖之名者,必遭亂世之患也。今至人生亂世之中,含德懷道,拘無窮之智,鉗口寢說,遂不言而死者,衆矣。然天下莫知貴其不言也。故道可道,非常道;名可名,非常名。著于竹帛,鏤于金石,可傳于人者,其粗也。五帝三王,殊事而同指,异路而同歸。晚世學者,不知道之所一體,德之所總要;取成之迹,相與危坐而說之,鼓歌而舞之,故博學多聞,而不免于惑。(《淮南子·本經訓》)
桓公讀書于堂,輪人斲輪于堂下,釋其椎鑿而問桓公曰:“君之所讀者,何書也?”桓公曰:“聖人之書。”輪扁曰:“其人在焉?”桓公曰:“已死矣。”輪扁曰:“是直聖人之糟粕耳!”桓公悖然作色而怒曰:“寡人讀書,工人焉得而譏之哉!有說則可,無說則死。”輪扁曰:“然,有說。臣試以臣之斲輪語之:大疾,則苦而不入;大徐,則甘而不固。不甘不苦,應于手,厭于心,而可以至妙者,臣不能以教臣之子,而臣之子亦不能得之于臣。是以行年七十,老而爲輪。今聖人之所言者,亦以懷其實,窮而死,獨其糟粕在耳!”故老子曰:“道可道,非常道。名可名,非常名。”(《淮南子·道應訓》)
詩、春秋,學之关者也,皆衰世之造也,儒者循之以教導于世,豈若三代之盛哉!以詩、春秋爲古之道而貴之,又有未作詩、春秋之時。夫道其缺也,不若道其全也。誦先王之詩、書,不若聞得其言;聞得其言,不若得其所以言。得其所以言者,言弗能言也。故道可道者,非常道也。(《淮南子·氾論訓》)
這三段解釋雖然各有不同重點,但是對“道可道,非常道”的解釋都完全一致。無論是“相與危坐而說之,鼓歌而舞之,故博學多聞,而不免于惑”,或者“今聖人之所言者,亦以懷其實,窮而死,獨其糟粕在耳”,或者“言弗能言也”,都强?{“道可道,非常道”的意思是無法利用語言來描寫永久之道。漢代以後的大多數注疏家也都采取同樣的解釋,本文無法一一贅述。
“道”爲引導之導
《淮南子》還有一篇提到“可道”之事,卻與上面三段均謂“道可道,非常道”爲無法利用語言來描寫永久之道,意義顯然不同。
德足以教化,行足以隱義,仁足以得衆,明足以照下者,人之俊也。行足以爲儀表,知足以决嫌疑,廉足以分財,信可使守約,作事可法,出言可道者,人之豪也。守職而不廢,處義而不比,見難不苟免,見利不苟得者,人之杰也。(《淮南子·泰族訓》)
“豪人”可以給老百姓做“儀表”,也就是一個模範,他“作事可法,出言可道”是說老百姓可以模仿他所作的事,可以循導他所說的話。“出言可道”雖然句頭提到“出言”,可是于此“道”並没有講說的意思,而應該讀爲“導”,即“引導”的“導”。中國語言中的很多動詞,諸如“買”和“賣”、“受”和“授”、“借給”的“借”和“借來”的“借”、“說明”的“明”和“明白”的“明”,都有彼此相向的意義,既可以反映主動者的立場,又可以反映受動者的立場,“導”也有兩個相同而方向相反的意義:從一邊看,意思是“導致”,從另外一邊看,意思是“從導”。這裹,“可道”和前一句話的“可法”並行。“可法”的意思是老百姓可以模仿豪人所作的事。同樣,“可道”的意思是老百姓也可以循從豪人所說的話。
《淮南子》這一段文字與下列《文子·上禮》篇的一段顯然有著同一個來源:
智過萬人者謂之英,千人者謂之俊,百人者謂之杰,十人者謂之豪。明于天地之道,通于人情之理,大足以容衆,惠足以懷遠,智足以知權,人英也。德足以教化,行足以隱義,信足以得衆,明足以照下,人俊也。行可以爲儀表,智足以决嫌疑,信可以守約,廉可以使分財,作事可法,出言可道,人杰也。守職不廢,處義不比,见難不苟免,見利不苟得,人豪也。英俊豪杰,各以大小之材處其位,由本流末,以重制輕,上唱下和,四海之內,一心同歸,背貪鄙,向仁義,其于化民,若風之靡草。(《文子·上禮》)
雖然《文子》說“作事可法,出言可道”的人是“人杰”而不是“豪人”,但是意思和用詞幾乎一模一樣。衆所周知,《淮南子》和《文子》之間有不少段落相同。自唐代末年起,大多數學者都以爲這些地方通常是僞造的《文子》抄引了《淮南子》的部份内容。然而,近來也有不少學者以爲可能是《淮南子》抄引《文子》。還有一種可能,就是這兩個文獻同樣利用另外一個文字根源。無論如何,《文子》似乎不可簡單視爲僞造品而棄置不管。譬如說,關于《老子》“道可道,非常道;名可名,非常名”,《文子》可以提供一種與其他解釋不同的寶貴理解。
上引《淮南子·泰族訓》和《文子·上禮》的文字中,儘管没有提到“道可道,非常道;名可名,非常名”,但《文子·上禮》篇此前一段文字則對之有直接解說,不但對“可道”也采用“可以導致”的解釋,並且對“非常道”提出了一個與一般的解釋完全不同的讀法。
老子曰:古者被發而無卷領以王天下。其德生而不殺,與而不奪。天下非其服,同懷其德。當此之時,陰陽和平,萬物蕃息,飛鳥之巢可俯而探也,走獸可繫而從也。及其衰也,鳥獸蟲蛇,皆爲民害,故鑄鐵鍛刃以禦其難。故民迫其難則求其便,因其患則操其備,各以其智去其所害,就其所利。常故不可循,器械不可因。故先王之法度,有變易者也。故曰:名可名,非常名也。五帝异道而德覆天下,三王殊事而名後世,因時而變者也。譬猶師曠之?{五音也,所推移上下無常,尺寸以度,而靡不中者,故通于樂之情者能作,音有本主于中。而知規矩鈞繩之所用者能治人,故先王之制,不宜即廢之,末世之事善即著之。故聖人之制禮樂者,而不制于禮樂;制物者,不制于物;制法者,不制于法。?故曰:道可道,非常道也。(《文子·上禮》)
根據這一段文字,“道可道,非常道(也)”和“名可名,非常名(也)”的基本意義是時間和習慣一直在改變,五帝三王所以有名是因爲他們“因時而變”,也就是說他們都按照他們自己時代的條件來治世,並不認爲有一個永久的“常”可以解决所有的問题。某一時代制定的習慣過時以後,不一定對後代有所便利。因此,“先王之制,不宜即廢之”。像師曠?{音那樣,没有固定的音可以滿足每一曲音樂的需要;换句話說,“上下無常”。語言也不例外。商代甲骨卜辭滿足了當時的政治和宗教要求,但是到戰國時代諸子百家已經遠遠不够,更不用說對今天21世紀的語言環境。這一段文字最後一句話寫得非?常恰當:“聖人之制禮樂者,而不制于禮樂;制物者,不制于物,制法者,不制于法。”是說每一個聖王都會創造他自己時代所需要的禮樂物法,他不會受古代的前例的限制。
這一段文字意思很清楚,就是以“先王之法度,有變易者也”來解釋《老子》的“道可道,非常道(也)”。這個解釋中對《老子》這句話的兩個關鍵詞彙也提出新的解讀。“道”是什麽意思?應該就是文中所說“五帝异道”。關于“常”,它的說法更直接:“常故不可循,器械不可因”的“常故”就是那些不可循道的永久不變之前例。按照這個讀法,“道可道,非常道”的意思是“一個可以導致(或循道)的道路(或道法)不是永久不變的道路(或道法)”。换句話說,能够滿足各個不同的時代和環境的道路(或道法)是一直在演變著的道路(或道法)。
《文子·上禮》這一段文字與上引《淮南子·本經訓》雖然在用詞上有所相同,但是意義上仍然不同。《淮南子》說“五帝三王,殊事而同指,异路而同歸”似乎暗示同一個意思,但是《淮南子》接著說“晚世學者,不知道之所一體,德之所總要,取成之迹,相與危坐而說之,鼓歌而舞之,故博學多聞,而不免于惑”就完全不一樣,强?{“道”之“一體”和“德”之“總要”,這與《文子》迥然不同。《文子》對“道可道,非常道;名可名,非常名”的理解似乎是一致的,幾乎每一段解釋都與《淮南子》有不同的重點。②這裏,簡單地引用三個不同的段落:
老子曰:治國有常而利民爲本,政教有道而今行爲古,苟利于民,不必法古,苟周于事,不必循俗。故聖人法與時變,禮與俗化,衣服器械,各便其用,法度制令,各因其宜,故變古未可非,而循俗未足多也。誦先王之書不若聞其言,聞其言,不若得其所以言,得其所以言者,言不能言也,故“道可道,非常道也,名可名,非常名也”。聖人所由曰道,猶金石也,一?{不可更,事,猶琴瑟也,每終改調。故法制禮樂者,治之具也,非所以爲治也,故曲士不可與論至道者,訊寤于俗而束于教。(《文子·上義》)老子曰:夫事生者應變而動,變生于時,無常之行。故“道可道,非常道也,名可名,非常名也。”書者言之所生也,言出于智,智者不知,非常道也;名可名,非藏書者也。(《文子·道原》)文子問治國之本。老子曰:本在于治身,未嘗聞身治而國亂,身亂而國治也。故曰:修之身,其德乃真。道之所以至妙者,父不能以教子,子亦不能受之于父,故道可道,非常道也,名可名,非常名也。(《文子·上仁》)
這三段文字雖然提到“言”和“書”,說明道不可傳授,但是其重點都在强?{時間之不同。無論是《上義》篇之“聖人法與時變,禮與俗化,衣服器械,各便其用,法度制令,各因其宜,故變古未可非,而循俗未足多也”,還是《道原》之“夫事生者應變而動,變生于時,無常之行”,對“無常”都有肯定的意義。
“道可道,非常道;名可名,非常名”之語法分析
要分析“道可道,非常道”的語法構造和意義,也許應該從讀法比較一致的“名可名,非常名”開始。歷來注疏家對“名可名,非常名”的基本語法分析大概没有多少分歧。關于“名可名”,諸家都認爲第一個“名”是名詞,意思是“名稱”,第二個“名”是動詞,意思是“安名”。“名可名”的意思是“可以安名的名稱”,也就是說人們可以創造的詞彙。“非常名”複雜一點。關鍵問題是“永久名稱”有積極的還是消極的意義?换句話說,“非常名”應該分析爲“非—常名”還是“非常—名”。一般的注疏家和翻譯者都采取第一個讀法:“非—常名”的“常名”就是永久不變的名稱或者原則。從語法分析來說,這當然没有問題。然而,按照邏輯,這個讀法和這個句子前一個段落不平衡,等于說“名—非—常名”,它的哲學意義並不很深。“名—非—常名”,亦即“名不是常名”,等于說“紅不是粉紅”。這没有錯,但僅僅是一個語言的游戲。與這個讀法不同,“名可名,非常—名”在第一個“名”和第三個“名”之間可以畫一個等號,“名”是“名”。問題是,人們可以創造的名稱到底是什麽樣的名稱,在什麽條件之下能够說“名”是“名”纔有哲學意義。這是說“能够安名”的名稱是“非常”的名稱,也就是說是按照時間演變的名稱。這樣的語法比較平衡。
“道可道,非常道”的意思,和“名可名,非常名”並行,語法和邏輯分析應該相同。第一個“道”是名詞,第二個“道”是動詞,這是大家都同意的讀法。然而,雖然作名詞的“名”和作動詞的“名”有明顯的關係,是一個詞的兩個功能,但是如上所述,注疏家對兩個“道”字往往提出不同的解釋,以爲第一個“道”是“道路”或“道法”的意思,而第二個“道”是“講說”的意思。在古書上,“道”爲講說的用法相當罕見。但是,更重要,這個意思和“道”的基本意義,即“道路”,也就是第一個“道”的意思,没有明顯關係,可以說是兩個不同的詞(既然用一個字來寫)。如果兩個“道”字像兩個“名”字那樣相關,而作名詞的第一個“道”有“道路”的意思,那麽作動詞的第二個“道”應該反映“道路”的動詞功能,亦即“循道”或者“導致”的意思。在漢代以後普通中國文字用法上,“道”在這個意義上是寫作“導”的。然而,“道”和“導”顯然是古今字,也就是說兩個字有同一個根源。在古書上“導”的意思往往是寫作“道”字的,這是古文字學常識,不用舉出例證。那麽,“道可道”最基本的意思應該是“可以循道的道路”。
弄清楚“道可道”的意思以後,再進一步探討“非常道”的意思,應該没有多少問題。如上所述,“非常道”的意思也和“非常名”並行。“非常名”應該讀作“非常—名”,同樣,“非常道”應該讀作“非常—道”,也就是“按照時間演變的道路(或者道法)”。那麽,“道可道,非常道”的意思應該就是“可以循道的道路(或者道法)是按時演變的道路(或者道法)”。
關于這個讀法還有兩個問题要弄清楚。第一個問題是古代漢語對名詞的用法比較模糊,不分單數和複數。在古書上,如果一個名詞没有明顯的數字,要知道是一個事物還是兩個或兩個以上事物,只能從上下文分析。不幸,“道可道,非常道;名可名,非常名”這句話位于《老子·道經》第一章開頭,没有上文可以參考,下文雖然提出“此兩者”,也許是指“道”和“名”,但是更可能是指“無名”和“有名”,更没有其他綫索可以參考,所以無法知道作名詞的“道”和“名”應該指單數道路(或者道法)和名稱或者多數道路和名稱。第二個問題相似,就是古代漢語不用冠詞,更不用說分定冠詞(像英語中的“the”)和不定冠詞(像英語中的“a”,“an”)。“道”既可以指“某一個”(或者“某些”)道路(或者道法),也可以指“這一個”(或者“這些”)道路(或者道法)。除非上下文說清楚意思,很難知道它確切的意義。這兩個問題所以重要,是因爲不少注疏家和翻譯者對作名詞的兩個“道”字和兩個“名”字采取不同的讀法,認爲第一個作名詞的“道”(即“道可道”的第一個“道”)是指任何一個或某些道路或者道法(像英語“a way”或者“ways”),而第二個作名詞的“道”(’即“非常道”的“道”)乃是唯一不二的宇宙萬物的根源(就像英語經常翻譯的“the Way”或者“the Dao”,不但利用“the”指明,並且以大寫作詞頭)。綜上,我們可以給“道可道,非常道”設想四種不同的讀法,即:
1.一個能够循道的道路是一個按時演變的道路(意思是說任何一個道路是這樣的)2.能够循道的大道是一個按時演變的道路(意思是說唯有大道是這樣)3.一個能够循道的道路是按時演變的大道4.能够循道的大道是按時演變的大道
這樣分析可能過于玄妙,很可能最妥當的讀法也是最不確定的讀法。其實,很多中文注解,包括白話翻譯在內,可以避免這樣的分析,“道”就是“道”,“名”就是“名”,無需多說。然而,作譯爲外文時,而特別是翻成一種印歐語系的語言,必須確定名詞是單數還是複數的,用定冠詞還是不用定冠詞。這樣的分析只好按照翻譯者自己的語感。我自己翻譯古代漢語時候,通常采取最不制定的表現。如果需要的話,按照我這樣的理解,“道可道,非常道”可以翻譯成英文:
A way that can lead is an inconstant way.或者,可能更妥當是根本不用冠詞(按照英文語法,只有複數名詞可以不帶冠詞;這也不一定是一個短處):
Ways that can lead are inconstant ways.
應該說明,我自己的學術專業並不是中國思想史。③我當然讀過了《老子》以及某些《老子》注解和翻譯(包括白話文和外文翻譯),但是不能說對《老子》的詮釋史一切都有掌握。也許本文所提出的讀法,早已有別人提出了,而只是我忽略了。如果是這樣,我只能道歉。
注释:
①下列《老子》譯文是“公密部”(Bureau of Public Secrets)所收集的:Lao Tzu: Zao Te Ching(175+Translations of Chapter 1);見http:// www. bopsecrets. org/gateway/passages/tao-te-ching. htm。
應該指出的是除了大多數翻譯反映這種最普遍的理解以外,還有個別翻譯與下面將要提出的理解相似或者接近。譬如,荷蘭雷頓大學教授J. J. L. Duyvendak 1954年對《老子》第一章頭兩句話的翻譯是:
The Way that may truly be regarded as the Way is other than a permanent way.
The terms that may truly be regarded as terms are other than permanent terms.
最近(2003年),Philip J. Ivanhoe發表了更獨特的翻譯,如下:
A Way that can be followed is not a constant Way.
A name that can be named is not a constant name.
然而,無論如何,大多數的翻譯都集中于“能够利用語言來講說的道理或者道法”的理解。
②唯有《文子·精誠》篇載有與上引《淮南子·本經訓》相同的段落好象和《淮南子》讀法没有兩樣,即:
老子曰:振窮補急則名生利起,除害即功成。世無灾害,雖聖無所施其德。上下和睦,雖賢無所立其功。故至人之治,含德抱道,推誠施無窮之智,寢說而不言。天下莫知貴其不言者,故“道可道,非常道也,名可名,非常名也”。著于竹帛,鏤于金石,可傳于人者,皆其粗也。三皇五帝三王,殊事而同心,异路而同歸,末世之學者,不知道之所體一,德之所總要,取成事之迹,跪坐而言之,雖博學多聞,不免子亂。(《文子·精誡》)
③本文寫完後,得見曹峰:《〈老子〉首章與“名”相關問題的重新審視》,《哲學研究》2011.4:58-67,對“道可道,非常道”,特別對“名可名,非常名”有所討論。指出除了最普遍的理解以外,還有“第二種解釋系統”,就是本文所介紹的《文子》的解釋。曹文雖然引用了《文子》各個段落,但是他文章的重點仍然在于他所謂第一解釋系統(即“能用一般的語言來說明的平常、普通的‘道’不是常道”)。並且,曹文謂《文子》“行文跳躍,較難理解”(第61頁),說“主要說的是聖人需要把握‘常道’和‘常名’,即絕對的、變動的‘道’、絕對的、變動的‘名’,使自己能够通過無形把握有形,通過無名把握有名”,恐怕和《文子》本意有所出入。“絕對的”和“變動的”應該是矛盾的觀點。如上面所釋,《文子》傾向於“變動的”觀點
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