2023年5月1日 星期一

跟棟方 志功先生學些漢字:柵,表の柵 ,切,棟方 志功/ 棟方 志切;版畫「板画」「マシテ悲愛」








17:14

289 續《在永恒之門》- 插畫家古斯塔夫·杜雷(Gustave Doré) HC/John Walsh














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288 梵谷:《在永恒之門》(Van Gogh in Paris) HC/John Walsh


Tombe de Vincent Van Gogh - Auvers sur Oise - Septembre 2022.jpg
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【 あの人の人生を知ろう~棟方志功編 】

1903.9.5-1975.9.13





30歳。この頃油絵から
板画に移行しつつあった 66歳。めっさ豪快に笑う棟方!

左目は失明しており、右目も極度の近眼だった






「棟方志功のお墓」案内板。ゴッホの象徴であるヒマワリが描かれていた ここを登っていく



2000年 初巡礼
没年は永遠の命を表す「∞」! 2012年 12年ぶりの再巡礼
“静眠碑"と彫られている
背面に戒名
「華厳院慈航真毎志功居士」




志功はゴッホの大ファン。墓を同じ形にした ゴッホ兄弟の墓。左がヴィンセント 左が志功、右は「棟方家」の墓



墓石の後方に石板→ 「驚異モ 歓喜モ マシテ悲愛ヲ 盡(ツク)シ得ス」 近辺には三内丸山遺跡がある










善知烏(うとう)版画巻/
夜訪(よどい)の柵 35歳 釈迦十大弟子/
目けん連の柵 36歳 花狐の柵 53歳
「嬉しさの狐手を出せ曇り花」 空晴の柵 54歳
「今日 空 晴レヌ」
ある修行僧が、漁師の霊に“妻子を訪ねて
欲しい”と頼まれ、夜半に戸を叩いた場面。
能の幽玄と北国独自の悲しみを刻んだという 板木を一杯に使って木の持つ
生命力を出し切り、仏に近づき
つつある人間像を彫り上げた 桜にうかれて踊る陽気な狐
棟方の動物はどれも味がある 力強くピチャンと跳ねる魚
短い言葉と相まって気持ち良い

※棟方曰く、「柵(さく)」とは巡礼が寺々を回って納めるお札で、一作ごとに念願をかけて無限に続く道標としているとのこと。


棟方志功(むなかた・しこう)は、1903年、青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(9男6女の15人兄弟)。豪雪地帯であり、囲炉裏の煤で眼を病み、極度の近視となる。小学校卒業後、すぐに家業の手伝いに入ったため中学には行けなかった。17歳の時に母が病没し、家運も傾き父親は鍛冶屋を廃業。棟方は青森地方裁判所の給仕となった。絵が好きだった棟方は、仕事が終わると毎日公園で写生をするなど絵画を独学し、描き終わると風景に対して合掌したという。

18歳の時、友人宅で文芸誌『白樺』に掲載されたゴッホの『ひまわり』と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。カンバスに刻まれたヒマワリから、ゴッホその人が立ちのぼった。
※この『白樺』に関するエピソードは詩人・小高根二郎が『棟方志功』に次のように記している。
棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。
「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」
友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。
「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」
と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。
「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」
棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、
「ンだ。ガにける」
贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」
と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。 この誓い通り、棟方は油絵にのめり込んでいく。

1924年に21歳で上京。故郷を旅立つ際、見送りに来た人々の前で「帝展に入選するまで何があっても青森に帰りません」と誓っていた。だが、帝展や白日会展などに油絵を出品するも落選が続いた。
1926年(23歳)、版画家の川上澄生(すみお/1895-1972、当時31歳)が、初夏の恋の幻想を描いた木版画の代表作『初夏の風』を国画会に出品、棟方はすっかり心を奪われる。
1927年(24歳)、4回連続で帝展に落選。棟方の絵はなかなか世間に認められず、時間だけが経っていった。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めたが、かたくなに抵抗した。
“師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない!”
棟方は新しい道を模索し始めた。当時の画壇で名声の頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子に過ぎなかったことから、この頃の気持を自伝にこう書いている「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」。

1928年(25歳)、上京から4年、帝展への5回目のチャレンジで油絵作品『雑園』が悲願の初入選を果たす。棟方は5年ぶりに帰郷し、両親の墓へ入選を報告した。
…だが、棟方は気付いた。“そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか!北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくてはわいてこない、あふれてこない命が確実に存在するはずだ!” 。
棟方は油彩画から木版画に転じ、のちに“木版画の神様”と讃えられる平塚運一(うんいち/1895-1997、当時33歳)に木版を学び、木版画の制作に没入していく。また、国画会会員となり同展に出品を続けた。
「この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)」、この言葉が棟方の座右の銘となった。棟方は文字を画面に入れ込み、絵と文字を同次元に扱い、統合させた独特の「板画」を確立する。

                       

1930年(27歳)、文化学院で美術教師を務め、同年に赤城チヤ(21歳/1909生)と結婚し、2男2女に恵まれる。当初、棟方は貧乏ゆえに東京で仲間と共同生活を送り、チヤ夫人は青森で呼び寄せられるのを待った。「昭和5年、わたくしは、チヤコと一緒になりました。 (中略)しみじみの想いというか、わたくしの足りないものを持って来てくれたチヤコであったのでした」。この年、国画会の展覧会に『貴女裳を引く』など4点が入選。
1931年(28歳)、初めての版画集『星座の花嫁』出版。
1932年(29歳)、日本版画協会会員となる。国画奨励賞を受賞した版画4点が米仏の美術館に買い上げられる。 チヤ夫人がしびれを切らして上京し一緒に暮らし始める(1934?)。
1936年(33歳)、国画会展に棟方版画の原型となった『大和し美し(やまとしうるわし)』を出品。ヤマトタケルノミコトの古代神話をうたった佐藤一英の壮大な詩と、棟方の土俗的で生命力のある絵が融合した作品となった。『大和し美し(やまとしうるわし)』は民芸運動の柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎らの目にとまって交友が始まり、柳が日本民藝館の所蔵品として『大和し美し』を購入。棟方は上京から12年目にしてついに自分の作品が国内で売れた。

棟方は民芸運動に参加し、日本民芸派との交流は制作上の転機となった。縄文的、民芸的特質をもった棟方板画と呼ばれる独自の作品が生まれ、宗教的(仏教的)主題の多くの傑作が誕生する。棟方は「無私の心に咲く無名の美」を創作の根本とすることを自覚し、素朴な情念、原始の呪術性、広大な宇宙観を、簡潔なフォルムで大画面の版画に表現した。
※棟方はいったん彫刻刀を持つと一心不乱に彫り上げたが、彼が創作に集中できたのはチヤ夫人が支えてくれたから。棟方の作品が安定して売れ始めたのは結婚6年目になってから。幼子を抱え貧しい日々が続いても、夫人はずっと応援し続けた。

1937年(34歳)、国画会同人となる。日本浪曼派の文芸評論家・保田与重郎(やすだ・よじゅうろう/1910-1981)らとの交友から日本的情感、東洋的美に開眼し、民話を題材に制作するようになった。
1938年(35歳)、帝展(文展)で『善知鳥(うとう)』が版画界初の特選に輝く。
1939年(36歳)、大作『釈迦十大弟子』を下絵なしで一気に仕上げる(興福寺の十大弟子から着想)。制作中の棟方の談話「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」。

1942年(39歳)、随筆集『板散華(はんさんげ)』にて、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言。板の声を聞き、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を板画とした。
1943年(40歳)、棟方は自身がお遍路さんのように祈りを込めて1枚1枚彫っているため、この頃から自作に「○○の柵」とタイトルをつけるようになる。この年、ベートーヴェンの音楽と出会い、その宇宙的な包容力に深く胸を打たれる。
1945年(42歳)、富山県福光町に疎開。棟方は当地の自然をこよなく愛し、敗戦後も6年8カ月滞在する。浄土真宗にふれる。
1946年(43歳)、富山県に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付ける。この住居は谷崎潤一郎が「愛染苑(あいぜんえん)」と命名。
1951年(48歳)、東京に戻る。
1952年(49歳)、ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。 『天地乾坤韻』を制作。日本版画協会を脱退して、笹島喜平らと日本板画院結成。
1953年(50歳)、『湧然する女者達々する女者達々(ゆうぜんするにょしゃたちたち)』を制作。
1955年(52歳)、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。

1956年(53歳)、ベネチア・ビエンナーレにて『湧然する女者達々』『柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)』などを出品、日本人として最初の国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタとなる。「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました。」(当時会場で働いていた人の証言)。棟方は以後も数々の国際展で受賞をかさね、その芸術はひろく知られるようになった。
1958年(55歳)、日本画の「双妃図」を描く。版画を「板画」としたように、彼は日本画を「倭画(やまとえ)・倭絵」と称した。『柳緑花紅板画柵』を制作。
1959年(56歳)、初めての海外旅行で欧米を訪れ、アメリカでは各地の大学で板画の講義をおこない、ヨーロッパではフランスで念願だったゴッホのお墓参りを実現する。その際、チヤ夫人の眉墨を使い碑文の拓本をとったという。以降、この年を含めアメリカには4度訪れている。
1960年(57歳)、代表作を網羅した大巡回展が米国で前年に続いて開催され好評を博す。同年、『歓喜自板像の柵』(自画像)を彫る。酔っ払って幸せそうにひっくり返る自分の背後に、写生に出かけるゴッホと、ベートーヴェンをたたえる言葉を刻み込んだ。この頃、朝日賞を受賞するなど、ようやく国内の美術界で正当に評価される。眼病が悪化し、左眼を失明、右眼のみで彫り続ける。
1961年、敬愛する柳宗悦が72歳で他界。
1963年、倉敷市の大原美術館内に棟方板画館が開設。
1964年(61歳)、自伝『板極道』を出版。
1969年(66歳)、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画『大世界の柵』を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。 同年、青森市名誉市民第1号に選ばれる。

1970年(67歳)、文化勲章を受章。コメントは「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。そして長年サポートしてくれたチヤ夫人に感謝し、「この勲章の半分はチヤのもの」と讃えた。
1972年(69歳)、詩人の草野心平とインドを旅行する。
1973年(70歳)、板画と肉筆画を融合させていく。
1974年(71歳)、自分で設計したお墓を8月5日に建立する。生前墓であり夫婦墓。
1975年9月13日、肝臓癌のため72歳で永眠。自ら“板極道”を名乗った男は、「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。同年11月、郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。
民芸的、縄文的生命感をもった“板画”を創作。代表作「二菩薩釈迦十大弟子」など。
代表作に「華厳譜」「釈迦十大弟子」「女人観世音板画巻」「湧然たる女者達々」「東海道棟方板画」など。

〔墓巡礼〕
墓は青森三内霊園の「静眠碑」。棟方は死を予感したのか、亡くなる前年に自分の墓の原図を描いていた。忠実に作られたその墓は、なんと敬愛するゴッホの墓と全く同じ大きさ、デザインのものだった!前面には『棟方志功 チヤ』と夫婦の名を刻み、没年には永遠に生き続けるという意味を込めて「∞」(無限大)と彫り込まれていた。墓の背後には「驚異モ/歓喜モ/マシテ悲愛ヲ/盡(ツク)シ得ス」《不盡(ふじん)の柵》と彫ったブロンズ板がはめ込まれている。今でも毎年9月13日の命日には、第九を流しながら焼香をあげ「志功忌」が開かれている。

※青森市には「棟方志功記念館」「浅虫温泉 椿館」「青森県立美術館」で棟方の作品に会える。
※棟方が好んだ第九はコンヴィッツニー指揮、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団のもの。
※長男は元俳優・棟方巴里爾(ぱりじ/1998年没)、次男は棟方令明(元棟方板画美術館長)、長女は宇賀田けよう、次女は小泉ちよえ。巴里爾は墓所の向かって右側のお墓に眠っている。
※お墓はゴッホのオリジナルより少し大きく作ったとのこと。
※30代に借家のふすまにタコが何匹も泳ぎ回る絵を描き、大家さんからえらく怒られた。
※ねぶた祭りが大好き。
※棟方が富山に建てた住居は移築保存され、鯉雨画斎として一般公開されている。
※劇団ひとりが棟方を熱演したドラマ『我はゴッホになる』(107分)が素晴らしいデキ!



『歓喜自板像の柵』 57歳
大好きな先人たちに囲まれ、酒を酌み交わしている幸福感いっぱいのセルフ・ポートレート。左上は「エヲカキニデル」
ゴッホ、中央の石塔は尊敬する民芸学者・柳宋悦の象徴(柳の字が見える)、右上は「ヨロコビノウタ」ベートーヴェンを
讃える言葉、茶碗は陶芸家の河井寛次郎の象徴、そして中央に酔っ払って幸せそうに寝転ぶ自分自身。さらに棟方の
右手には愛するチヤ夫人の白く美しい手が繋がれている!なんて幸せな作品なんだ~ッ!



「わだばゴッホになる」 草野心平

鍛冶屋の息子は
相槌の火花を散らしながら
わだばゴッホになる
裁判所の給仕をやり
貉(むじな)の仲間と徒党を組んで
わだばゴッホになる
とわめいた
ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし
ゴッホにはならずに
世界の
Munakataになった
古稀の彼は
つないだ和紙で鉢巻きをし
板にすれすれ獨眼の
そして近視の眼鏡をぎらつかせ
彫る
棟方志昴を彫りつける ※原文のまま


参考文献:現代日本の美術14・棟方志功(集英社)、ARTISTS JAPAN8・棟方志功(同朋舎)
スペシャル・サンクス:ゴビィさん





Animemashite (アニメマシテ)

まして【▲況して】
((肯定文で)) much[still] more;((否定文で)) much [still] less
弟子の作品があれほど立派なのだから,ましてやその師の作品はもっと立派だったに違いない
If the disciple's work is so splendid, his teacher's (work) must have been much more so.彼女は言葉遣いも知らないし,まして行儀など知るはずがない
She does not even know how to speak properly, let alone how to behave./She doesn't even know polite language, 「much less [to say nothing of] good manners.

まし‐て【▽況して/増して】
の解説


[副]

1 前の場合でさえそうなのだから、この場合はもちろんそうだという気持ちを表す語。なおさら。いわんや。「大人でも大変なのだから、―子供には無理だ」

2 いっそう。さらに。もっと。

「瓜食 (は) めば子ども思ほゆ栗食めば―偲 (しぬ) はゆ」〈・八〇二〉
棟方志功的自己設計1974的墓碑中央的 “不盡 no (日文)柵”,
老師:「悲愛」好像是佛教用語,我不了解佛法,也許請教您那位翻譯佛書的蘇老師比較清楚。整句(依字面翻譯)是「別說驚異和歡喜,更何況要盡得悲愛」(參考用,不知前因後果,無法完全理解這句話的涵義。)
皎碧


棟方志功 歓喜モ驚異モ 書










作品番号
16045
作者
棟方志功
作品名
歓喜モ驚異モ 書
作品詳細

「歓喜モ驚異モマシテ悲愛ヲ盡シ得ス」
紙本 箱入 33×24 46.5×109cm 昭和31年 53歳
棟方志功鑑定委員会鑑定証

略歴

大正~昭和の版画家。青森県生。洋画を独学、上京して帝展に入選。川上澄生の作品に感銘を受けて木版画の道へ進む。柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司ら民芸運動のメンバーとの交流が転機となり、宗教的主題の多くの傑作を生み出す。数々の国際展でも受賞、高い評価を受ける。朝日文化賞受賞。文化功労者。文化勲章受章。自らの木版画作品を「板画」と表現した。昭和50年(1975)歿、72才。

価格(日本円)
売約済




表の柵 


老師:早安。剛去市場回來,搜尋一下網路,這真是大哉問,讀了幾篇小論文當中都特別說明「柵」字所代表的意義,可見此字之重要,最簡單的說明如下:

棟方によると、「柵」とは四国の巡礼者が寺々に納める お札のことも意味しているようです。お寺で願いをこめて お札を納めるように、一柵ずつ作品に祈りをこめて、ひた すらに彫っていく棟方の姿勢が、この文字に要約されています。

(譯)依據棟方的說法,所謂「柵」也有四國巡禮者向各寺院索取「お札」(這裡我暫譯為護身符,明確譯法為何?我不清楚)般的意涵。如同向寺院許願而求取護身符,每一柵每一柵作品都是棟方衷心祈禱、專心一致雕刻出來,這個「柵」字就是表達這個過程的文字歸納。

這樣答覆,不知道可不可以呢?

皎碧



黒井千次の短編小説集。日常の奥底に潜む闇を描いた。平成18年(2006)刊行同年、第59回野間文芸賞受賞

常用漢字] [音]サク(漢) [訓]しがらみ とりで

  1.  木や竹などで編んだ垣根。「竹柵・鉄柵

  1.  とりぎり‐の‐しがらみ【義理の柵】 

    の解説

    義理に縛られて、思うままにならないこと。

  2. で。「城柵」   


棟方 志功先生未成名前,名字寫成 "棟方 志切"。他的「板画」全用木板刻.......



領頭字

解形

《說文》:“柵,編樹木也。人岙人木,人岙人冊,冊亦聲。”王筠句讀:“樹一作豎”,“謂立木而編綰之以為柵也。”

注音

釋義

(一)zha4(又讀<現代音>shan1<\/現代音>)《廣韻》所晏切,去諫生。又測戟切,楚革切。錫部。柵欄。用竹、木、鐵條等做成的阻攔物。如:木柵;鐵柵;柵門。《廣韻‧諫韻》:“柵,籬柵。”《集韻‧諫韻》:“柵,編竹木為落也。”清段玉裁《說文解字注‧木部》:“柵,編豎木也。”《莊子‧天地》:“內支盈於柴柵。”《後漢書‧段熲傳》:“(熲)乃遣千人於西縣結木為柵,廣二十步,長四十里,遮之。”宋王安石《半山即事十首》之九:“豚柵雞塒晻靄間,暮林搖落獻南山。”《西遊記》第三十一回:“你看他六隻手,使著三根棒,一路打將去,好便似虎入羊群,鷹來雞柵。”



棟方志功
Shikō Munakata.jpg
生誕1903年9月5日
日本の旗 日本青森県青森市
死没1975年9月13日(72歳没)
日本の旗 日本東京都
国籍日本の旗 日本
著名な実績油絵木版画・板画
受賞ヴェネツィア・ビエンナーレ国際版画大賞(1956年)
第11回毎日芸術賞(1969年)
選出日本版画協会

 棟方 志功(むなかた しこう、1903年明治36年)9月5日 - 1975年昭和50年)9月13日)は、日本板画家従三位

青森県出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意[1]1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。

来歴[編集]

1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。豪雪地帯出身のため、囲炉裏を病み、以来極度の近視となる。

少年時代にゴッホ絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した(友人たちとの会話の中で「大きくなったらお前は何になりたいか」の問いに「私だったら絵描きになりたい」という趣旨であった、ゴッホとは個人ではなく絵描きという職業のことだと思っていた、という説がある)[要出典]。青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ。

1924年大正13年)、東京へ上京する。帝展白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。1928年(昭和3年)、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、入選する。1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務める。1932年(昭和7年)日本版画協会会員となる。

1934年(昭和9年)、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動、制作のきっかけとなる。1936年(昭和11年)、国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦河井寛次郎民藝運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。

1945年(昭和20年)、戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。1954年(昭和29年)まで在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛し、また多くの作品を残した。1946年(昭和21年)、富山県福光町栄町に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付けた。また住居は谷崎潤一郎の命名によって「愛染苑(あいぜんえん)」と呼んだ。現在は栄町にあった住居を移築保存し、鯉雨画斎として一般公開している。

1956年(昭和31年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。1969年(昭和44年)2月17日青森市から初代名誉市民賞を授与され[2]、翌年には文化勲章を受章する。

1975年(昭和50年)9月13日、肝臓がんのため[3]東京で死去。72歳没。死没日をもって従三位に叙された。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた「静眠碑」と名付けられた墓がある [4]

作風・人物[編集]

棟方は大変な近視のために眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。第二次世界大戦中、富山県疎開して浄土真宗にふれ、「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」「御二河白道之柵」「我建超世願」「必至無上道」などを題材にした作品が特に有名である。「いままでの自分が持っているル一ツの自力の世界、自分というものは自分の力で仕事をするというようなことからいや、自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんという無力なものか。何でもないほどの小さいものだという在り方自分から物が生まれたほど小さいものはない。そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします」と言っている。

また大のねぶた好きであり、作品の題材としても描いている[5]。中には歓喜する自身の姿を描き込んだものもある。また生前ねぶた祭りに跳人として参加している映像や写真も現存する。

一般に版画家はまとめて作品を摺り、必要に応じて限定番号を入れるが、棟方はこうしたやり方を嫌い、必要な時に必要な枚数を摺り、その時点で必要であれば擦った日付とサインを入れた。棟方がサインを入れ始めたのは1955年(昭和30年)前後であり、戦前の作品にはサインが無い。作品の題名が変わることも頻繁にあり、注意を要する。

一方、棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。

作品[編集]

「板画」の代表作[編集]

棟方の代表作の1つ。中央に十大弟子、六曲一双屏風にするため右に文殊、左に普賢の二菩薩を追加して仕立てた作品。東京国立博物館に展示されていた興福寺の十大弟子、特に須菩提から着想を得て制作された。この時の棟方には十大弟子について深い知識は無く、完成後に資料を見てそれぞれ名付けたという。そのため、従来の図様とは無縁であり、印相なども正確ではない。しかし、仏に近づこうと苦悩・葛藤し、吠える者すらいる弟子たちの姿を、力強く生命力溢れて表現しており、彼らの人間性や精神性までも感じ取れる。棟方自身は「下絵も描かず、版木にぶっつけに一気呵成に約一週間で彫り上げた」(『板画の道』)と語っている。確かに彫りに要した時間は1週間程度なのは確かだが、実際には構想を得てから約1年半の間に熟考し、数百枚もの手慣らしが残されており、極めて入念に制作されたことが分かる。
版木は両面を用いて6枚使っている。板木を無駄なく一杯に使い、板の枠ギリギリの柵も複数ある。東京の自宅が空襲で焼けてしまったため菩薩の版木が焼失してしまったが、5枚は疎開する際ロッキングチェアを運ぶ添え木として使われたため難を逃れた。1948年(昭和23年)に菩薩像を彫り直しており、姿も変わっている[6]。改刻前の作品は、棟方志功記念館(六曲一双)、總持寺(六曲一双)[7]富山県美術館(六曲一双)[8]千葉市美術館(二曲六隻)[9]大原美術館(額装[10])などが、改刻後は棟方志功記念館(2組)、宮城県美術館(12面、1970年(昭和45年)摺[11])、南砺市立福光美術館(六曲一双)、栃木県立美術館(六曲一双[12])、東京国立近代美術館(六曲一双、棟方自身が寄贈)、京都国立近代美術館(12面)[13]パラミタミュージアム(六曲一双)[14]柏市砂川コレクション(六曲一双)[15]小平市平櫛田中彫刻美術館[16]町田市立国際版画美術館龍泉寺足利市)などが所蔵。
なお、各図の配置は屏風によって不統一で、棟方は最晩年まで十人の名前と並べ方を考え続けている。一貫して同名・同位置なのは、目犍連須菩提舎利弗の3名のみで、時期によって名前も位置も変化する。1967年(昭和42年)に棟方板画美術館所蔵作品の並びを「基本とする」と宣言するものの、実際にはその後何度も並び方を変えている。こうした事は以後の作品にもあり、完成に満足しない棟方の姿勢が窺える。
本作は1940年(昭和15年)第15回国画会展出品し翌年佐分賞、1955年(昭和30年)第3回サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞、翌年のヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリの国際版画大賞を受賞している。

領頭字

解形

《說文》:“切,刌也。人岙人刀,七聲。”丁山《數名古誼》:“七之見于卜辭、金文者,通作十……本象當中切斷形,自借為七數專名,不得不加刀于七,以為切斷專字。”

注音

釋義

(一)qie1《廣韻》千結切,入屑清。質部。(1)割;截。《說文‧刀部》:“切,刌也。”《廣雅‧釋詁一》:“切,斷也。”又《釋詁三》:“切,割也。”《禮記‧少儀》:“牛與羊魚之腥,聶而切之為膾。”唐白居易《輕肥》:“果擘洞庭橘,鱠切天池鱗。”魯迅《吶喊‧阿Q正傳》:“油煎大頭魚,未莊都加上半寸長的蔥葉,城裏去岙煀加上切細的𠾭熷忽絲。”

(2)古代加工珠寶器物的工藝名稱。《爾雅‧釋器》:“骨謂之切,象謂之磋。”《詩‧衛風‧淇奧》:“如切如磋,如琢如磨。”毛傳:“治骨曰切。”《周禮‧天官‧太宰》“五曰百工,飭化八材。”鄭玄注引鄭司農云:“珠曰切,象曰磋。”《論衡‧量知》:“切磋琢磨,乃成寶器。”

(3)切磋,指學行上的互相觀摩,取長補短。《爾雅‧釋訓》:“丁丁嚶嚶,相切直也。”郭璞注:“丁丁,斫木聲;嚶嚶,兩鳥鳴。以喻朋友切磋相正。”《漢書‧賈誼傳》:“習與智長,故切而不媿。”明袁宏道《答江進之別詩》:“有過必直陳,無憂不共切。”

(4)幾何學上直㿹岙戔與弧㿹岙戔或兩個弧㿹岙戔相接於一點叫切。如:兩圓相切;切㿹岙戔;切點。

(二)qie4《廣韻》千結切,入屑清。質部。(1)兩物相摩擦。《淮南子‧俶真》:“可切循把握而有數量。”高誘注:“切,摩也。”《文選‧傅毅〈舞賦〉》:“摘齊行列,經營切儗。”李善注:“切,相磨切也。”宋王安石《汴說》:“肩相切,踵相籍。”

(2)中醫以手摸脈診斷病症叫切。《素問‧脈要精微論》:“切脈動靜而視精明。”王冰注:“切,謂以指切近於脈也。”《史記‧扁鵲倉公列傳》:“越人之為方也,不待切脈望色聽聲寫形,言病之所在。”張守節正義引《素問》楊玄操注:“切,按也。”

(3)反切的簡稱。反切是我國傳統的一種注音方法,即用兩個字相拼的方法來注另一個字的音。反切上字跟被切字的聲母相同,反切下字跟被切字的韻母和聲調相同。如:東,德紅切。

(4)近,貼近。《廣韻‧屑韻》:“切,近也;迫也。”《易‧剝》:“剝爿岙木以膚,切近災也。”《荀子‧勸學》:“《詩》、《書》故而不切。”楊倞注:“不委曲切近於人。”《農政全書‧水利‧泰西水法下》:“人入窖以目切地,望地面有氣如煙,騰騰上出者,水氣也。”

(5)符合。如:切題;不切實際。《史記‧老莊申韓列傳》:“韓子引繩墨,切事情,明是非。”《文心雕龍‧明詩》:“婉轉附物,怊悵切情。”清趙翼《陔餘叢考》卷十四:“《明史》於諸臣奏議,凡切於當時利弊者,多載之。”

(6)誠懇;直率。《廣雅‧釋詁二》:“切,直。”《古今韻會舉要‧屑韻》:“切,剴切也。”《楚辭‧九章‧抽思》:“固切人之不媚兮。”聞一多校補:“切,直也。”《史記‧太史公自序》:“守節切直。”宋蘇軾《明君可與為忠言賦》:“論者雖切,聞者多惑。”

(7)深;深深地。《漢書‧霍光傳》:“光聞之,切讓王莽。”顏師古注:“切,深也。”《北史‧袁充傳》:“每欲征討,充皆預知之,乃假託星象,獎成帝意,在位者皆切患之。”《文明小史》第十二回:“有兩個初次出門,思家念切。”

(8)嚴峻。《後漢書‧劉陶傳》:“切來岙力州郡,護送流民。”晉李密《陳情表》:“詔書切峻,責臣逋慢。”《新唐書‧朱敬則傳》:“不切刑罰,無以息暴。”

(9)嚴刻。《漢書‧貢禹傳》:“姦軌不勝,則取勇猛能操切百姓者,以苛暴威服下者,使君大位。”顏師古注:“切,刻也。”

(10)削平。《楚辭‧九歎‧惜賢》:“撥諂諛而匡邪兮,切淟涊之流俗。”王逸注:“切,猶䏁膪旡木㗱也。”

(11)言岙遺責。《古今韻會舉要‧屑韻》:“切,譏切也。”《史記‧三王世家》:“陛下讓文武,躬自切及皇子未教。”《後漢書‧陳寵傳》:“災眚變咎,輒切免公台。”李賢注:“切,責也。”

(12)急迫;緊迫地。《論語‧子張》:“切問而近思。”皇侃疏:“切,猶急也。”《素問‧調經論》:“必切而出,大氣乃屈。”王冰注:“切,謂急也。”唐薛登《論選舉疏》:“徇己之心切,則至公之理乖。”清徐釚《送方爾止還金陵》:“問君歸思一何切,笑指征衣已百結。”

(13)緊要的。《集韻‧屑韻》:“切,要也。”《漢書‧揚雄傳下》:“請略舉凡,而客自覽其切焉。”顏師古注:“切,要也。”《農桑輯要‧序》:“刪其繁重,摭其切要。”

(14)悲悽貌。南朝陳徐陵《梅花落》:“橫笛短簫悽復切。”唐杜甫《十二月一日三首》:“新亭舉目風景切,茂陵著書消渴長。”仇兆鰲注:“切,乃悽切之切。”《紅樓夢》第三十八回:“半爿岙木落月蛩聲切,萬里寒雲雁陣遲。”

(15)形容聲音細急。多用作“切切”。南朝梁口熷天均《三婦豔詩》:“大婦弦初切,中婦管方吹。”唐白居易《琵琶行》:“小弦切切如私語。”

(16)門檻;階石。後作“砌”。《漢書‧外戚傳下‧孝成趙皇后》:“切皆銅沓(冒)黃金塗。”顏師古注:“切,門限也。”漢張衡《西京賦》:“刊層平堂,設切厂岙圭隒。”

(17)副詞。表示強調,相當於“一定”、“千萬”。多用於否定句。《北堂書鈔》卷四十五引《晉令》:“獄屋皆當完固,厚其草蓐,切無令漏溼。”《契丹國志‧景宗紀》:“汝子母切毋殺之。”《三大紀律八項注意》:“遵守紀律,人人要自覺,互相監督,切莫忘記了。”


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